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新規就農者が考えるべき「作物」の選び方
この辺で、耕作物についても触れたいと思う。
新規就農者が先ず考える必要があることは、「どんな作物を育てるか」である。トップにも記載しているが、先ずはズバリ「さつま芋」で行きたいと考えている。
以下その理由について述べる。
曽祖父の代からさつま芋を作り、干し芋を加工
一番の理由は、曽祖父の時代から代々、さつま芋を耕作しており、干し芋の加工を行っていたから。
最も身近な作物の1つであったという理由。
母から聞いた話だが、ぎんろーは離乳食から干し芋を食べていたとの事。
天然食材で添加物一切なしの干し芋は老若男女誰しもが安心して食べられる食材である。
また先述したように、祖父母はお茶の耕作もしていた。
静岡らしくお茶はどうなの?というご意見もあろう。
実はぎんろーは「我が家で採れた純粋なお茶」というものを飲んだ事がない。
お茶に見識がある方は御存じだろうが、今は各お茶農家が独自で加工まで全てを行う所はごく僅かだ。
お茶の葉を積んだら近所の「お茶加工場」へ持っていき、加工場が一括して加工をする。
要は近所のお茶葉がブレンドされてしまうので、良くも悪くも「自分の畑で採れたお茶」の味を知る事はできない。
そういった意味では、さつま芋は自家で栽培~加工までの全工程を行う事が出来る。
干し芋の発祥はここ御前崎(今は茨城が一大勢力)
実は干し芋の発祥の地は静岡県御前崎市という事実をご存じだろうか。
静岡県民、御前崎市民でも知らない人は多いのではないだろうか。
世間一般のイメージでは茨城県の特産物というイメージが強く、事実80%以上が茨城県で生産されている。
御前崎には「いもじいさん(甘藷翁)」という昔話がある。
御前崎のさつまいもの歴史は古く、その由来は今から240年以上も前の江戸時代中期・明和3年(1766)にさかのぼります。
当時、御前崎沖で薩摩藩の御用船「豊徳丸(とよとくまる)」が座礁し、
その船員24名を二ツ家の組頭・大澤権右衛門(おおさわごんえもん、1694~1778年)親子らが助けました。
権右衛門は薩摩藩からの謝礼金20両を断り、3種のさつまいもとその栽培方法を伝授されました。
静岡県の遠州地方(主に遠州灘に面した県西部)にさつまいも栽培が普及したきっかけは、
この御前崎の出来事からだと言われています。
このいも切干は、1800年代半ばに白羽村の栗林庄蔵が考案し、白羽地区新谷には栗林庄蔵翁の碑が建立されています。http://www.sweet-omaezaki.jp/and/index.html 一部抜粋
要するに人助けのお礼として、薩摩藩からさつま芋の栽培方法を伝授され、
栗林庄蔵(現御前崎市白羽)が、さつま芋を切って干す、「いも切干」を考案したという訳である。
今やコンビニでも売られ、中国産も出回るほどポピュラーとなった干し芋。
静岡の、御前崎が生んだと誇りを大切にし、静岡の干し芋ブランドを少しでも多くの人に知って頂きたい。
複数品目を耕作するには多くのノウハウや設備が必要
さつま芋、お茶は分かったけど他の作物はどうなの?というご質問。
今の畑では大根、ネギ等の野菜も小規模ながら耕作している。
自家消費分には問題ないが、販売までを見据えて耕作を行うとなれば話は別。
例えば静岡では他に苺やメロン等も有名であるが、それらはハウス栽培が基本となる。
ハウス自体の設備だけでなく、給排水・電気・棚・暖房設備等の様々な投資が必要となる。
また、耕作に掛かる作業時間(手間)も重要な指標である。
農水省が提供していた、各作物毎の労働時間を統計化した資料がある。
10a(1000㎡)当たり、年産での統計。
品目 労働時間
①苺 2092(h)
②大根 119(h)
③里芋 192(h)https://ymmfarm.com/1289 一部抜粋
ハウス栽培の苺は粗収益は大きいがその分、ハウス栽培での手間や経費も増大する。
一方、露地野菜は収益は少ないものの手間が掛からない。その差10倍以上!
肝心のさつま芋は見つからなかったが、露地野菜の大根や里芋と大きな差はないと思われる。
また単に手間が掛かる、というだけでなく、苗の育て方~肥料のやり方まで莫大なノウハウを必要とする。
多品種を耕作して各作物毎に設備から栽培の知識を全て得る事は不可能に近く、まずは1つ軸となる作物を決めて事が必要である。
さらに天候という自然環境にも大きく影響を受けるのだから「農業は知的生産活動」と言われる事にも納得である。
栄養いっぱいのスーパーフードで加工用途も多彩
さつま芋と言えば食物繊維のイメージがあるが、ビタミンC、ビタミンB、ビタミンE、カリウム、カルシウム、鉄分と
さらにはポリフェノール(アントシアニン・クロロゲン酸)も含まれている。
まさに美容と健康に欠かせない成分が多分に含まれていると言える。
また加工用途も多彩で、干し芋をはじめ羊羹やジャム、芋けんぴやスープ、アイスにプリンにスイートポテトと自然な甘さを武器にどこを主戦場にしても戦える能力を秘めている。
未来の食料危機を救う(肥沃でない土地でも育つ、天然の保存食)
さつま芋が栄養豊富な事は前述の通りだが、干し芋は昔「軍人いも」と呼ばれ、戦中時の戦時食となった歴史がある。
第2次世界大戦中、戦況の悪化とともに日本国内では食料不足が深刻化し、当時の政府は工業用原材料や食料政策としてさつまいもに注目しました。
昭和18年(1943)、さつまいもは食料増産の重要作物として脚光を浴び、全国の市町村に「甘藷増産技術要項」を配布して栽培を奨励し、収量調査も行いました。こうした資料も市内に残されています。http://www.sweet-omaezaki.jp/and/index.html 一部抜粋
戦時中、甲子園の内野が芋畑になったのは有名な話だが、まさに生きるための食料としての役割を果たしてきた。
乾燥食品の為、保存が効いた事もあり、戦時中は多くの人の命を救った食料にもなった事だろう。
ただ、それは過去の事だけではない。 「世界がもし100人の村だったら」という有名な絵本があるが、今も100人のうち20人は栄養が十分ではない生活を送り、
1人は飢餓の危機に瀕しているという。
実際、東南アジアやアフリカ等の貧困地域に芋の栽培と乾燥技術を伝える活動をしている団体もある。
まさに食料危機を解決する糸口となる可能性も秘めているという訳である。
まとめ
先人の知恵とノウハウの賜物であるさつま芋・干し芋を後世に継承しつつ、さらに進化を遂げる事も必要であると思う。
日々能動的に考えながら営農の場に立ちたいと思う。
※銀篭園の歴史と干し芋への思いについて祖母にインタビューしました。ぜひ併せてご覧ください。
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