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干し芋の発祥地御前崎でその生誕ストーリーを詳細解説(現地取材あり)
以前「干し芋誕生秘話」として静岡県で干し芋が生まれた理由を、主に気候や土壌性質(遠州のからっ風・日照時間・砂地)に着目して解説しました。


今回は干し芋が誕生するまでのキーとなる登場人物やイベントにスポットを当てながら、その生い立ちを含めたストーリーを辿って行きたいと思います。
全ての食べ物にはその生まれた理由や背景、歴史があります。
例えば「サンドイッチ」は英国の「サンドイッチ伯」がトランプ遊びの間の食事として考案された事は有名ですね。
当然、今皆さんが食べている干し芋もポッと湧いて出た訳ではなく、誕生の歴史がある訳です。
「干し芋のルーツ」を実際の現地取材を踏まえてご紹介します!(と言っても銀篭園の近所ばかりですが笑)



1.御前崎沖で薩摩藩の御用船が難破(~導かれし者たち~)
静岡県御前崎は静岡市と浜松市のほぼ中央に位置し、その名前の通り、遠州灘から駿河湾を分断する南に突き出た半島です。
今は灯台や大きな港が整備されていますが、この御前崎の海は岩礁地帯が多く、海の難所として知られかつては船がよく難破していました。
実際に今でも沖に難破船の一部が見えます。
御前崎の海行ってきた( *´艸`)
すっごく綺麗で
難破船もばっちり見えた♪
明日の面接上手くいよきっと
応援してるよ!! pic.twitter.com/eG3ZMqPfeN— あやな@0909 TREASURE05X (@0419_ayn) 2015年6月7日
この御前崎の地形が「干し芋誕生」の第一のキーワードです。
江戸時代中期・明和3年(1766)の春、当時「駿河の国」御前崎沖で薩摩藩(現鹿児島県)の御用船「豊徳丸(とよとくまる)」が座礁し、その船員24名を二ツ家の組頭・大澤権右衛門(おおさわごんえもん、1694~1778年)親子らが助けました。
権右衛門は彼らに衣類や食事を与え、手厚く介抱したということです。
薩摩藩の関係者はこの事にとても感謝し、謝礼金20両を申し出たが、権右衛門は「難破した船を助けるのは村の慣わしだ」と言ってなんとその申し出を断ります!



そしてその謝礼金の代わりにと、豊徳丸が積んでいた3種のさつまいもとその栽培方法を伝授されました。
2.門外不出のさつまいも栽培の技を伝授(~そして伝説へ~)
一見、ちょっと残念とも思える「さつまいもの伝授」ですが、実はこれはとんでもなく凄い事で、普通では有り得ない事なんです。
当時、薩摩藩はさつまいもとその栽培方法を門外不出の秘密にしていました。
実はその時代に起こった関係する出来事として、対馬藩の秘話があります。
当時、対馬藩は薩摩に密使を送り、薩摩藩の厳しい監視をかいくぐって数個の種芋を持ち帰っています。
持ち帰ったのは原田三郎右衛門という人物で、今でも対馬の上県町に遺徳の顕彰碑が残っています。
正当な方法ではないかもしれませんが、それだけ対馬の島民の感謝が大きかった事が伺えます。



ついも最近ニュースになっていましたが、種牛の精液を国外へ不正に持ち出されそうになった事例がありました。(Yahoo News:和牛精液あわや国外へ 出国検査甘さ露呈 申告制、告発わずか 貴重な資源流出は打撃)
畜産家にとっても、農家にとっても農畜産物の品種(遺伝子)というものは長きに渡って品種改良を行ってきた、いわば汗と血の結晶・「命」とも言うべきものです。
こちらも最近話題になっている植物の知的財産権について定めた「種苗法改正」もこういった観点から注目されています。
少し話がそれてしまいましたが、とにかく種芋とその栽培方法を伝授された事はそれだけ貴重な価値のある事なんです。
謝礼金の代わりにとさつまいもの栽培技術を伝授された大澤権右衛門は近所の人たちから「いもじいさん」と呼ばれるようになり、御前崎の地にさつまいもの栽培が広がりました。
村人達は百回忌に当たる明治11年(1878年)、御前崎の海福寺に「宝篋印塔(供養塔)」を建立し、その後明治41年(1908年)にさつまいも伝来の経緯を記した「いもじいさんの碑」を建て、感謝の気持ちを表しています。
【現地取材】今の海福寺に行ってみた
静岡県御前崎市御前崎、御前崎港から坂道を上った海を一望できる高台の上に海福寺はあります。
本堂脇にある、階段を上ったところに石碑はあります。
これが御前崎市指定有形文化財である「いもじいさんの碑」です。
石碑の脇にはいもじいさんの説明が書かれていました。そして何やら「追善供養」の文字が。
なんと毎年、10月10日に海福寺で芋じいさんの功績を称え甘藷翁



3.煮切り干し製造の誕生(~幻の大地~)
1人目のいもじいさん、大澤権右衛門がさつまいもの栽培法を伝授されてから約60年後の1800年代半ば、御前崎に住んでいた栗林庄蔵は「芋の煮切り干し」の製造を考案しました。
食品乾燥機などが無い時代、こちらの記事でご紹介した通り、静岡のこの地域の特性を上手に利用した発想と言うべきでしょう。


- 長い日照時間
- 遠州地区に吹く寒冷な西風「遠州のからっ風」
- 水はけの良い土質



煮切り干しというのは、洗ったさつまいもを釜で茹で、包丁で薄く切り、セイロに並べて干し上げたものです。
この煮切り干しが好評で、近所の農家も競って作るようになったと言われています。
さつまいもに熱を加えて干す(水分を飛ばす)とより甘く、美味しくなるという発見です。
今でも御前崎市白羽地区新谷には栗林庄蔵翁の碑が建立されています。
一部抜粋:ほしいもの学校
そういう訳で御前崎には2人のいもじいさんの碑があります。
ちなみに銀篭園の干し芋伝道師である祖母の生まれもこの白羽地区です!
祖母へのインタビュー記事はこちら。


4.蒸切り干しの誕生(~デンエンの戦士たち~)
一部抜粋:干し芋の学校 写真:磐田地域での製造風景
今日の、芋を蒸して作る手法の干し芋が誕生したのは、それから約半世紀後の1892年(明治25年)頃と言われています。
天竜川の右岸にある大藤村(現磐田市)の大庭林蔵と稲垣甚七は、さつまいもを蒸して厚切りにして乾燥させる製法を考え出しました。
これが現代の干し芋の定番である、蒸して作る干し芋の誕生です。
こちらも周囲からの評判が高く、生産量が急増しました。その理由は以下の通りです。
- 煮炊きの必要がない
- 乾燥食品の為、保存に適している
- 携帯に便利
- 適度な甘みのある美味しさ
その後、干し芋の生産は静岡県全体に広がり、1920年には静岡県全体の生産量は1万トン近くにまで達したそうです。
今はビニールハウスの所も多くなりましたが、昔は冬になると田畑にこのような木の枠組みで芋を干す棚を作成していました。(銀篭園のトップページの写真の背景にも干し棚が写っています)
当時の干し芋最盛期には田園地帯に沢山の干し棚が作られ、壮観な景色が広がっていたことと思います。



まとめ
今回は静岡県御前崎を中心とした干し芋の生い立ちについて、解説させて頂きました。(いちいちドラクエ風サブタイ付けて失礼しました笑)
しかし、全国の干し芋ファンや関係者の皆さんや静岡県御前崎の方々にとって「2人のいもじいさん」は本当にヒーローのような存在だと思います。
権右衛門が船を助けなければ、金20両を素直に受け取っていれば、今の干し芋は無かったかもしれません。
そこには古きよき日本人の「徳」や「清貧」と言ったものを感じさせる誇り高いストーリーがあり、「人助けの精神」に基づく人と人との繋がりが生んだ物語がありました。
また以前下の記事でもご紹介した通り、戦時中の食糧危機を乗り切れたのも、サツマイモの恩恵が大きかっただと言われています。


保存食として日持ちがする干し芋は戦中・戦後の食糧難にも数多くの人の命を救った事でしょう。
人の命を救ったことがきっかけで、今度は自分たちを含めて多くの人の命が救われて、さらに今日の全国をはじめ世界へ人々の食の豊かさに繋がっていく、そんな幸せの輪が広がっていく素敵な生誕秘話がありました。
こういった背景を知っていると、干し芋を食べるとき少しだけ心が温まったような気がしますね。
現在はその生産のシェアは茨城県が圧倒的となりましたが、またそのお話は機会があれば。
今後も小さな幸せを少しでも多くの皆様にお届けできるよう、「干し芋の守り人」となれるよう、銀篭園一同努力して参ります。



参考サイト:Sweet Omaezaki . jp (御前崎発もっと干し芋を楽しむサイト)
参考サイト:ほしいも学校
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